犬を飼うということ、もはや現代人にとっては当たり前のこととなっています。犬を飼うということは誰でも気軽に行えるということ、ペットを飼うということが誰でもできるという気軽さを売りにしたようなペットショップの存在もあって犬、というわけでもなく動物との生活を楽しもうとしている人、もしくは現在進行形で暮らしている人と様々でしょう。当たり前のことを書きますが買う条件を満たしていることが大前提です。マンションに住んでいても飼うことは出来ますが許可が下りていないなどの理由などの障害があってはペットを購入するということは出来るわけもありません。こういった細かなところを知らなくてトラブルになる人も多いと思います。その点についてどうしても解決して動物との生活で寂しさを埋めたいと考えている人は、後は本人の行動次第でしょう。
あとはペットを飼うということはそれだけ金銭的な負担を強いられるということでしょう。こちらも世の道理というものでしょうが、無償で帰るほど甘い世の中ではありません。食事にしても犬自身に取ってこいというのは不可能です、そうなれば最悪あっという間に餓死することになります。人間は通常働いてお金を稼いでいる立場にあるなら、よほどのことをしなければ食糧難となること、この日本では早々ないでしょう。金銭的な使い方をきちんとセーブしていれば豊かな生活をしていくことは出来なくても最低限の人間らしい生活は行っていくことができます、ですがペットは違います。自然社会から隔離されて安全という庇護の名の元に隔離されている犬や猫などの生物は自分たちで食料を獲得するとなれば、厳しい世界を生き抜いていくことは不可能でしょう。危機的な状況に適応することで野生としての本能を取り戻しても、弱肉強食の世界であるために弱いものはただと打たされるだけの世界となっています、今の日本社会もまさにそんな構図となっています。ですがまだ人間においては理性というものが備わっているということを入れても恵まれているといえるでしょう、ですが犬などの人間との共存目的で作られた動物たちについて話は違ってきます。どんなことがあっても人間達が最期の瞬間まで面倒を見ることを放棄することができないのです、辛い別れとなりますがその業を背負うことこそペットを飼うということの本質なのだろうと私は考えています。
動物は当然ですが生きています、これは言うまでも泣く誰もが認知していることです。人間と動物の違いとしては二足歩行ができる、喋ることができる、知能指数が動物たちよりも優れているなど様々ですが、私から言わせれば人間と動物との違いなんてほとんどないものだと考えています。単純に喋れて生きるための手段を持っていること、このくらいだと考えています。それは違うだろうという人がいてもおかしくはないです、あくまで私の中においての人間と動物の違うというものはそのくらいなのです。私はたまたま環境と両親が動物を買うということに対して好意的だったこともあって、犬と猫の両種を飼っていたこともあります。接していくと確かに人間とはまるで姿かたちそのものも違っているのですが、どうにも人間以上に何かを考えて行動しているように感じられました。人間同士考えていることが分からないように、動物の思っていることを知る術は現在のところはほとんどありません。時代がもっと進めば動物達の考えていることを、人間の尺度で理解することの出来る言語に変換できるみたいなそんな装置が出来る可能性としては十分に考えられるとは思いますが、あまりにも未来的過ぎる話ですがそれでも理解できることに越したことはないでしょう。
動物は喋らないからといって何も感じることなく生きている、そんなことはありません。動物達にも痛みや苦しみを感じることも出来る上、人の言っていることをある程度となりますが、人間が話した言葉を理解することも出来るようになります。ペットを飼っている人なら分かると思います、必ずしも完全にこちらの意図を把握しているようなことはないかもしれませんが、それでも感情を共有することはあると私は思っています。言葉が通じないからといって、人間と何もかも違うということに繋がることではありません。嫌なことを経験すれば同様にストレスなどを溜め込む、嬉しいことがあればそれに比例するようなリラックスを表現するなど非常に人間染みた行動をすることがあります。そんな動物の、動物らしからぬ行動見るときが一番心豊かになる瞬間でもあったりします。動物のああいう無条件に可愛いと思える行動を見させられると飼っている人まで気持ちが幸福な気持ちで満たされるということもあるので不思議なところです。動物たちとの生活は確かに言葉というものは存在していませんが、こちらが無性に愛情という名の対価を注いで上げることで犬や猫はそれに対して十分すぎるくらいに返してくれます。それこそ私たちの普段から感じているような生活の中で生まれるストレスを解消してくれるほどの力を持っているときもあります。
喋れる相手がいることで寂しさを紛らわせることも出来るようになると言われていますが、人間同士というわけではなく人間と動物間においても同種の現象を引き起こすことは可能であると見ています。夢を見るようなことでもなく、実際に動物と一緒にいることで少しでも寂しさを紛らわせようとしている人がいるのも事実だと考えています。
動物には基本的に何も教える必要はない、そんな気楽過ぎるような考えを持っている人もいたりするのでしょうか。環境に適応していけば何とかなるだろうというような飼い主がいるとは思いませんが、そんな風に考えている人はそもそも動物自体とともにクラスという事を止めるべきです。今回の場合では犬を例にして持ち上げて書くとするなら、当然躾というものはきちんと重要になってきます。飼い主の命令を聞くようにするということはもちろんですが、犬にとって飼い主となる人が主人であるということをしっかりと認識させてあげるということはもっと大事なこととなります。犬は徒党を組んで行動をする生き物です、群れの中で暮らすことでようやく犬という固体は自分の居場所を理解することができます。ペットとして飼われることになる犬というものはそのように調教されているとはいえ、種としての本能から逸脱していることはまずないのです。生物としての本能に従うとするなら、犬にはまず自分のご主人様が誰なのかということを覚えさせなくてはいけません。こういった基本的な行いを怠ってしまうと、飼い主とペットという根源の定義を形成することも難しくなってしまいます。このまず初めの一歩をきちんと踏み出せるように配慮しなければ、犬との暮らしは成立しません。
従順な犬というものを作ることを目的にして躾を行っているということは間違いではないと思いますが、飼い主のことを全面的に信頼している犬を作り出せるか否かは全て飼い主の愛情によるところだといえるでしょう。信頼関係が成り立っている関係ならそれこそ言葉を通さなくても理解しあうことは出来ます、犬は猫と違って賢いことを含めてもやはりまずは飼い主である私たち人間のことを信用してもらえるように計らっていけば、お互いの生活バランスは均衡に保たれることになります。その具体例としてあげるなら子育てにそっくりだという人もいます。でもこの例えは非常に的確な表現だといえるでしょう。それくらい犬の教育というものは、その後影響を及ぼすことになる性格にも大きな影響を及ぼすことになるからです。そういう意味では犬のみならず、子犬から飼育することを選んだときには色々と気をつけなくてはいけないことというものが沢山あります。それは本当に人間の子供を育てるような気分になります。私個人としては生まれたばかりの子犬を飼ったことはありませんが、猫なら何度も出産現場をリアルタイムで目撃してその後の生活をするにしても子猫の成長を促すためにする行動などについては相当手を焼いたものです。猫と犬では比較というものをするのは難しいですが、子供を育てるということと犬などの動物などのしつけはそれくらい重要なことなのです。犬の場合ここでしっかりと教育をしておかないと命令を聞かない成犬になるという事例は珍しいものではないのです。甘やかして育てれば善悪の分別もつかないような自分勝手な犬になってしまいます、そんな犬と暮らしていくことは相当骨をおられることになってしまいます。とにもかくにも、犬にとっても躾という名の教育指導は非常に重要な意味を持っているからこそ、手を抜いてはいけないのです。
動物を飼うということはその分だけ飼っている犬達の世話を最後まで手を抜くということをすることなく、命という時間の最期まで看取る覚悟を持っておかなければなりません。ここのところを履き違えている人が多いこともまた事実です。悲しいことですが、老衰して弱っている犬を世話することなく保健所に送ってしまうという人もいることを考えるとどうして動物を飼うということを選んだのかがよく理解できません。最後に手放すような選択を選ぶことになるなら初めから飼う事を選ばない方がいいのです。そのときさびしいという感情に動かされて安易に飼う事を決めた人の中には、そういった犬の一生を背負うということを無責任にもその資格を捨ててしまう人がいる世の中を考えるとどうしてここまで残酷な世の中になってしまったのだろうかと疑問に思ってしまいます。昔は動物を飼う人はそれぞれに目的を持っていたはずです、その目的がない以上は買う必要などなかったことを考えると時代の流れというのでしょうか。一時期はペットブームなるものが日本にも確かに流行のように旋風を巻き起こしていましたが、その中にある動物を飼う事で生まれる障害などを知らないままだった人が多かったに違いません。最期には自分たちで飼うことは出来ないとして処分することになるというサイクルを、考えたくはないですが現代社会においては問題にもなっていることです。
実際に殺処分されてしまう動物は年年減少することなく、むしろ増えているのもまた事実です。動物を飼うということがどれだけ大変なことだということを子供の頃から教えられた私からすればその数字は直面したくないものです、でもその数字は現代の人々が命というものを軽んじているということに繋がるのかもしれません。もちろん昔と今では動物たちとの扱いに違いというものはありますが、それでも命を重んじるという点については古代の人々の方がきちんとその点について礼儀を持って接していたと考えられます。
動物、特に犬は中~大型犬ともなれば相当大きな体つきになって世話も子犬の頃と比べたらかなりの重労働になります。その点を承知しないで子犬の可愛さだけで飼う事を決めてしまう人もいるのです、成長した姿を見て可愛くないと手放す循環が当たり前になっているなんて社会になってしまったことも信じたくありません。これも現代社会における特徴と考えられなくもないですが、このままでは本当に日本という社会は命に軽んじるような社会になってしまいそうですね。そうならないためにも一人ひとりが自分を含めた命をあり方を、宗教的な観念抜きで理解していくことが必要となってくるのではないでしょうか。
犬と猫、この二つが主にペットとして飼育されている動物となっていますがダントツで犬を飼っている人が大多数となっています。猫好きには認めたくない結果でしょうが犬を飼えば言うことも聞くし、愛着もわきやすいなどという結果になっていますがこちらについてはどっちが良いという理由においてはあまり比較にならない答えだろう、そう感じました。確かに犬は従順で言うことも聴く利口な生き物ですが、それは先ほどでも紹介した躾という教育をしっかりと施された犬だからこそ当てはまる条件となっています。単純に犬を飼っていれば必然と飼い主のことを理解するなんて都合のいい事はありえません、またトイレなどの生活をしていく中において必要な場所も犬たちは自分勝手に決めることになってしまいます。その点については飼い主がしっかりと導いていかなければどうにもなりません。犬任せにしても何も始まりませんから、そういった点をきちんと踏まえておくことも重要です。
こうして話してみるとペット、犬に関しては生活において様々な試練が生活の中で起こってきます、それを乗り越えてこそようやく飼い主とペットの絆というものが生まれるというモノです。犬を飼うということの条件を全て覚悟の上で、また試練を乗り越えてこそようやくペット飼いとして認められることになります。そういった可愛さについては後々書いていきますので、どうか最後までお付き合いください。
愛犬家にしたら家族も同然!そんな犬と出かけることについて。ひたすら紹介します!